2024-04-01から1ヶ月間の記事一覧
速度を増す、私の体の原子がぶつかりあいながら。 寸評 きっと爆弾のような激しい熱さが。
バートの車を借りた。 寸評 いつの間に運転が出来るようになったのか、それが不思議。
この数週間、死についてはよく考えるが、神についてはまったく考えたことがない。 寸評 死神というものもいるはずだが。
しかし話し相手は必要だ。 寸評 それは大いに学ぶことがあるから。
ぼくはアパートから逃げだす。 寸評 必死さが伝わる。
学習のあとでアルジャーノンとあそんだ。 寸評 ネズミとしか遊べていないのを思うと、可哀想である。
心理りょー法というのはどうゆうことかというとぼくが寝いすにねるとストラウスはかせがそばのいすにすわってぼくは頭にうかんでくることをなんでもしゃべるのだ。 寸評 いわゆるフロイトがはじめた精神分析の説明とみていいだろう。
世界は、たとえもはやいかなる神でもないにせよ、やはり神的な想像力を、無限に転変することのできる力をもっているべきである。
崇高な人間は、たとえまったくかよわく脆くあっても、最高の価値を持っている。
人間の卑小化が長期にわたって唯一の目標として通用しなければならない。
芸術家のニヒリズム。
音楽以外の芸術において古典と解されているのは、ベートーヴェンのそれとは逆の類型であると。
現代の芸術家は、その生理学においてヒステリー症ときわめて似通っているのだが、性格としてもまたこの疾患にもとづいて印づけられている。 寸評 何と病名の軽々しい名づけ方か。
とくに、それが、全体の矜持を代表するよう個々人を強制するかぎりにおいて。
しかし彼はこの危険をも意欲する。 寸評 英雄とはそういうものなのかな?
とりわけて何か生あるものはおのれの力を放出しようと欲する。 寸評 放出を実際にするというわけではないようだ。
私たちが数学的公式を生起したものにあてはめうれば、何ものかが認識されているというのは、幻想である。 寸評 計算機が意識を持たないということに近いのかもしれない。
正常な現象としてのニヒリズムは、増大しつつある強さの徴候でもありうれば、増大しつつある弱さの徴候でもありうる。 寸評 どっちだ。
このことは、それが、形而上学者たちを先頭として、すべての非道徳的手段を駆使しているということで証明さるべきであろう。 寸評 道徳の源泉は、やはり、非道徳なのか。
「真の世界」が、たとえどのようにつねにこれまで構想されてきたとしてもーーそれはつねにまたしても仮象の世界であった。 寸評 真の世界はただ一つでなければならない。
「原因」は全然あらわれでることはない。 寸評 一つの妄想というところだろう。
存在するものを想定することは、思考し推論しうるために必要である。 寸評 存在が先だということか?思考よりも?デカルトの我思う故に我あり、は何処?
私の理論は、快、不快、「意志」、「目的」は、完全にたんに随伴現象にすぎず、一一けっして原因をなすものではないということである。 寸評 時の流れるままに、そして、重力で引っ張られているように。
じじつ、こうした無意識こそあらゆる種類の完全性に属している。 寸評 フロイトの「無意識」に至る道と異なる道だったのだろうか?
たとえばすべてのルサンチマン理想にあっては、憎悪と軽蔑が最初の動きである。 寸評 憎悪と軽蔑は逆方向だが、方向を持つに至っては類似している。
人間の願望、その「理想」をみてみよ。 寸評 届かないもの。
いかなる牧師も、いかなる市長も、それをいかんともなしえないのである。 寸評 牧師や市長は何をしているのか?
つまり、こうした精緻な仕方で非道徳的となるためには、きわめて多くの道徳性が必要であるからである。 寸評 交通ルールをしっかり知っていないと、ルール違反することができないということか?
キリスト教が最も強い最も高貴な魂をこそ破滅せしめる意志をもっているという、まさにこのことでキリスト教を攻撃するということを、けっしてやめてはならない。 寸評 単純にキリスト教の廃絶を画策しているわけではないようだ。
僧侶とは、彼らがそれを目立たせなければならないところの、それが理想であれ、神々であれ、救い主であれ、なんらかの超人間的なものの俳優のことである。 寸評 僧侶とは代弁者、神の口を借りた俳優。